◆上州真田の歴史について
※ 市政施行60周年記念事業『真田ゆかりの地 沼田』パンフレットより抜粋
★「真田氏登場」戦国の乱世、智略の将、真田昌幸 
 戦国の世、天正8年(1580)真田昌幸が北条氏の重臣、藤田信吉らを凋落して、沼田城へ無血開城で入城を果たした後、沼田氏の最後の武将、景義を謀殺し、沼田に城代を置き支配する。天正17年(1589)秀吉の命で、沼田は北条氏の手に渡るが、翌年、名胡桃城の争奪を口実に北条氏が亡びると再び真田氏が安堵され、真田領沼田が始まった。
★「信幸初代城主に」真田領沼田藩の祖、大名の道へ
 天正18年(1590)嫡男信幸が初代城主として沼田城に入城し、城下町づくりに着手。慶長2年(1597)に五層の天守閣を建造し、慶長19年(1614)頃には、城下町の基盤が整えられた。関ヶ原の戦いに父弟と決別した信幸は東軍勝利の恩賞で家康より上田と沼田を安堵される。
★ 「乱世に生きた小松姫(大蓮院)」 真田家を支えた賢夫人
 徳川家康の側近、本多忠勝の娘、小松姫(稲姫)は、家康の養女となり、天正17年(1589)に真田信幸のもとに嫁ぐと、夫:信幸とともに、真田領沼田藩の確立に尽くし、真田家存続に大きな影響力発揮し、多くの逸話を残す。元和6年(1620)江戸屋敷で病み、療養に草津へ向かう途中、中山道の鴻巣宿で没す。48歳。
★「気丈さと優しさ小松姫の逸話」 戦後乱世の影で
婿捜し・・・駿府の城で家康が、幼い稲姫に大名の若者たちを集めて「好きな男を婿に選べ」とたわむれた。皆、下を向きかしこまっていたが、姫は順番に顔を見比べた。信幸は「失礼であろう」とさえぎった。稲姫はこのことで信幸への輿入れを決めた。

入城拒否・・・関ヶ原の戦いに夫信幸は東軍に、昌幸と幸村は西軍に別れた。上田城に戻る昌幸親子が、途中沼田城へ立ち寄ろうと大手門を叩いた。門上に緋縅の鎧を着け薙刀を持った小松姫が立ち「父上とはいえ今は敵、城主の留守にお入れする訳にはいきませぬ」と気丈に言い放った。

正覚寺の饗応・・・大手口で昌幸と幸村を追い返した後、侍女達に案内させ正覚寺に丁寧にお招きし、たきぎをもやし軍勢を酒肴でもてなし、昌幸にとり可愛い孫に当たる娘や息子を会わせ歓待した。

村人に山林を・・・月夜野の後閑近く、嫁入りの時に所領したクリの林に、クリを拾いに行った時に親切にされたので、そのお礼に山林を150ヘクタール村人に与えた。この山林は今でも共有林として残る。恩義を感じた地元の人らは、ずっと小松姫の御霊屋の屋根変えをしてきた。

義父らを救う・・・関ヶ原の戦いで敗れた西軍の武将たちは、それぞれ殺されたり、厳しい処分を受けた。何度も昌幸には手痛い目に遭わされた徳川、死という処分が昌幸親子に下されたが、父の本多忠勝や夫の信之と共に奮闘して一命を救った。
※信幸は、関ヶ原の戦いの後、「幸」の字を「之」に改名した。

配流地へ送り物・・・九度山へ配流、蟄居の昌幸、幸村へ盆・暮れや節句のたびに酒や金品、干し柿などの名産を送り生活を助けた。昌幸の謝辞の書状が残されている。

徳川へ忠勤・・・大阪冬の陣、夏の陣に病気を理由に出陣をためらう信之の変わりに長子:信吉、次子:信政を出陣させ、弟の本多忠朝の陣に編入させ、真田の面目を見せた。信義19歳、信政17歳であった。